舩守弥三郎殿御夫妻750遠忌報恩奉行

舩守山蓮慶寺
舩守弥三郎殿御夫妻旧跡
日蓮大聖人伊豆法難霊跡
三十余日謫居御岩屋祖師堂
舩守山蓮慶寺縁起
当山は、弘長元年(西暦一二六一年)五月十二日の夕刻、川奈の沖の荒波洗う俎岩より日蓮大聖人をお救い申し上げ、密かにお給仕申し上げた舩守(本名は上ノ原)弥三郎ご夫妻の屋敷跡に建立されたお寺でございます。
舩守弥三郎ご夫妻は、無実の罪にて大罪人の名をきせられた大聖人に深い因縁を感じ、自らの命の危険をも顧みる事なく、漁具をしまう洞窟内に大聖人を三十余日お匿いしお給仕申し上げました。
その後百数十年を経て、舩守一族でお守りしていたこの霊跡を、五代目の子孫五郎平衛が出家得度を致し、名を蓮慶と改め住まいを庵となしました。そして、大聖人の大恩に奉謝する道場として、又舩守弥三郎ご夫妻の遺徳を偲ぶ舩守一族の菩提寺として開山されました。
因に「舩守」とは、日蓮大聖人より、三十余日の命懸けでお給仕下さったお礼として頂いたと伝わっており、本名は「上ノ原」と申します。現在は「ノ」が取れて「上原」という姓でこの川奈の地に百軒以上もの子孫が現存しており、その歴史を継いで居ります。
伊豆法難とは…
大聖人御在世の頃は、自然災害が多発して、大飢饅が襲い疫病が蔓延し、大変乱れた社会となっておりました。この原因を突き止めるため、お釈迦様全ての教え「一切経」を紐解いた大聖人は、人心の乱れ、特に教えの乱れが根本にあると看破されました。
その結果を纏めた書「立正安国論」を著し、文応元年七月十六日、時の 幕府最高実力者である北条時頼に進献し「国家諌暁」を行いました。
この書を受け取った幕府は、自らの権威失墜を恐れ、大聖人を亡き者にせんと謀を巡らし、理不尽な罪を着せ翌年、弘長元年五月十二日伊豆流罪と致しました。これを大聖人四大法難のひとつ『伊豆法難』と申します。

俎岩御尊像
昭和五十三年青森市館山与作氏、斉藤柾蔵氏の発願により建立されました。現在も折々船にて海上参拝を頂いており ます。
大聖人御尊像
本堂正面に祀られております大聖人の御尊像は、開山日量上人開堂の折り開眼されたもので、近年立正大学にて調査して頂いた結果天文十二年(一五四二年)作と確定された、日蓮宗準宗宝であります。

当山寺宝
弥三郎にあてた、海上安全の御本尊
この御本尊は、命の恩人である弥三郎ご夫妻に、何の御礼も出来なかった大聖人は、俗に「板子一枚下は地獄」の漁師の生活で事あっては相済まぬと、後に海上安全の御祈願を致し、海上安全の御曼荼羅を授与されたものであります。この御本尊は、五月十二日の法難会の当日のみ御宝前に御奉展致し、参拝の皆様のご祈願を致し ております。海上安全はもとより、弥三郎一族の繁栄にあやかり、各家の家運隆昌を祈念致しております。
その他歴代上人大曼荼羅御本尊等

御岩屋祖師堂
日蓮大聖人をお匿いした洞窟は、現在「御岩屋祖師堂」と申し上げ、当山より二百メートル程下がった川奈港の奥にございます。
大聖人は弥三郎に宛てたお手紙の中に「かかる地頭万民日蓮を憎み妬むこと 鎌倉よりも過ぎたり」としたためられている如く、川奈の地は大聖人にとって大変危険な土地でありました。
そこで弥三郎ご夫妻は、この洞窟の奥深くに大聖人をお匿いし、米の少ない五月(現在の六月)中旬より一ヶ月余りもお給仕されました。
大聖人にとりましても大変なご苦労ではありましたが、食事をお給仕下さるご夫妻の姿に、安房小湊のご両親を思い浮かべつつ、そのお給仕を有難く押し頂いた、大聖人にとりまして大変忘れがたい尊い霊場でございます。

舩守弥三郎許御消息
日蓮去る五月十二日流罪の時 その津に着きて候しに いまだ名をも聞き及び参らせず候ところに 船より上がり苦しみ候ひきところに ねんごろにあたらせ給い候しことはいかなる宿習なるらん 過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが 今末法にふなもりの弥三郎と生まれかわりて日蓮を愍み給うか たとえ男はさもあるべきに 女房の身として食を与え洗足手水その外さも事ねんごろなる事 日蓮は知らず不思議とも申すばかりなし ことに三十日余りありて内心に法華経を信じ 日蓮を供養したもう事いかなる事のよしなるや
かかる地頭 万民 日蓮を憎みねたむ事鎌倉よりも過ぎたり 見る者は目をひき 聞く人はあだむ ことに 五月の頃なれば米もとぼしかるらんに 日蓮を内々にて育みたまいしことは 日蓮が父母の伊豆の伊東川奈というところに生まれかわり給うか
蓮慶寺年中行事
◎五月十二日
◎八月十二日
◎八月十六日 夕方
御先祖及戦死・水難・無縁精霊供養法要(燈籠流し)
◎十月二十三日
宗祖大聖人報恩会式
伊豆法難会大法要
爼岩着岸法要
舩守弥三郎殿御夫妻報恩法要
檀信徒各家先祖霊位御施餓鬼会法要
◎九月十二日
龍口法難会
◎十一月二十三日
御岩屋御会式
御岩屋年中行事
◎六月十二日
伊豆法難会
舩守弥三郎殿御夫妻750遠忌報恩奉行

舩守弥三郎御夫妻尊儀の750遠忌を、本年と明年にお迎えいたします。
弥三郎(戒名は清信信士)が本年2月13日、妻おみね(戒名は妙信信女)
が明年10月13日に正当750遠忌となり、本年3月12日(旧暦2月13日)には、当山関係者参列の元法要を執り行いました。
皆様と共に執り行う法要は、5月12日第765回伊豆法難会に併せて、弥三郎尊儀の750遠忌法要を、明年は、5月13日に御夫妻並びに舩守一族の報恩法要を執り行う予定です。
弥三郎の出自につきましては、甲州上野原(現在の山梨県上野原市)にて、
国境にありました関所の役人の子として御生誕された、と伝わっております。
川奈に移ることになった理由は、弥三郎の父が土地の豪族の不正を暴いた為、濡れ衣を着せられ追放になった、とも言われております。理不尽な罪を着せられ御流罪となられました日蓮大聖人様の境遇と、両親の境遇に宿縁を感じ、弥三郎夫妻がお匿いする契機となった、と言われております。
匿った期間は35日間と長くはありませんでしたが、匿っていることが知れれば命の危険がある中を、我が身を顧みず大聖人を御匿い申し上げました。また季節は旧暦5月(現在の6月から7月)の米の少ない中を、大聖人にお給仕されたご苦労は、想像を絶するものがあったと思われます。しかしそのお給仕のお陰で、大聖人の御命が無事であった事と、そして今日御題目の教えが私達にまで伝わっている事に繋がった点を考えた時、弥三郎御夫妻の御給仕は、大変大きな功徳があったものと存じます。
その御恩を、御夫妻の750遠忌奉行中にご参拝頂き、親しくお伝えしていただきたく、茲にご案内申し上げます。ご参拝お待ち申し上げております。
蓮慶寺山主合掌





